断片の物置、跡地

記憶の断片が散乱するがらくた置き場

PCたちの位置づけ

 日曜の昼前から、DitVのルールについて、ツッコミを受けたことから派生して、様々な話をする機会をえました。
 最初に、ディフェンシブになっていた自分を反省。
 そもそも僕がストーリー・ゲームの普及を目指すことが、妙な誤解を生む可能性については、全く考えておりませんでした。
 人を取っ替え引っ替え4〜6人で割合に長い話となりました。一部に感情的要因が絡んでいたこと、加えて寝不足で話の流れをきっちり覚えているとは言い難いため、今回の記事はまとめではありません。
 その中で、セッションにおけるPCたちの立ち位置に話が及んだので、そこを抜粋します。


 僕は、ストーリーをメインとしたRPGにおけるPCの立場を「ドラマの主人公たち」としてとらえています。
 これは彼らが超常的なヒーローであることを意味しません。特殊な状況に巻き込まれた一般人だって、十分ドラマにおける主人公たり得るからです。
 重要なのは、状況を動かしうる位置に彼らがいることです。
 また、できうるならば彼らの有する能力や技能、設定や性格などが、セッションで発生している状況に絡んでいるのが望ましいとも考えます。ルール的なサポートがないなら、アドリブで結びつけるよう試みます。
 その目線からConflict Resolution的な判定処理は、プレイヤーの側からPCの持つ力をセッションに直接反映させようとするルールととらえることが可能です。
 自ら設定したリソースをどのように状況で役立てるのか、プレイヤーが創意工夫を凝らし、結果としてPCが活躍できるのはプレイヤーにとっても楽しいものに違いない。(おまけにGMも楽だし!)
 あまり疑問もなく、僕はそう考えていました。


 けれども、話の中でそういったあり方を「ゲーム内のリアリティが損なわれて醒める」「PCがセッション解決の鍵を無条件で持つのは気持ち悪い」という考えもあると知らされました。
 つまり、ご都合主義がまかり通るように見えるってことですね。
 自分も休養期前の遊び方がその路線だったため、感覚は十分に理解できます。
 けれど伝統的なRPGであっても、手詰まり状況にGMが助け船を出したり、プレイヤーが面白い技能の使い方を提案してその場のノリで受容されたり、といったゲームを楽しくするためのご都合主義は利用されてきた、と個人的には考えています。
 ストーリー・ゲームを中心に用いられているのは、これらのエッセンスを、プレイヤー側から積極的に働きかけるというファクターを加えて、ルールに組み込んだものなのだと。


 どちらが正しい、という話ではありません。
 とはいえ、今後もインディ系のRPGをGMしていく上で、違和感を出来る限り払拭するにはどうすればいいのか、考える切っ掛けとなりました。