断片の物置、跡地

記憶の断片が散乱するがらくた置き場

才能と技術(書き捨て)

 ここ最近の流れと、去年の会報にOさんが吟遊詩人的GMについて書かれた記事から連想した事を少々。
 誤解を招きかねない内容で恐縮ですが、RPGにおける才能について思いつくままに書いてみます。
 なお、結論まで行かない中途半端な内容です。個人メモ。


 TRPGの技術について語られるとき、個々人の才能といった要素はたいてい蚊帳の外です。スキルアップによってだれもがより楽しく遊ぶ事ができるようになる、のが焦点なのですし当然でしょう。実際にある程度の効果が上がっているからこそ、このアプローチは支持を得ているのだと考えられます。誰であっても身につけられる、という言葉には強い魅力があります。
 同時に、異端的だったり特殊だったりする手法を、脊髄反射的に悪いものとするケースがあるように見受けられます。吟遊詩人的ゲームマスターなんてその典型例でしょう。この単語から思い浮かぶのは「逸脱を一切許さない一本道シナリオ」「GMがひたすら語り続ける展開」「PC置いてきぼりでNPCが事件を解決」などではないでしょうか。参加するのは苦痛だろうなあ、というイメージしか湧きません。技術的な視点からすれば、「やってはいけないマスタリング」の筆頭にあがるかもしれません。


 しかし、世の中には特異な才能や研ぎ澄まされた腕前で、吟遊詩人的ゲームマスターを成立させてしまう人たちがいます。「強烈な個性からくるシナリオ」「飽きさせない展開」「釈迦の手の上にいると気がつかせない制御」「神業的なアドリブ」などの武器となるもを持ち、プレイヤーを楽しませることができれば、それはTRPGのセッションとして成立するでしょう。ごくごく希ではありますが、自分もそういったセッションにプレイヤーとして参加したことがあります。
 そこまで極端なものではなくても、経験則的にTRPGにおいて才能というものは存在します。この言葉が不適切ならば、個々の特性とでも言い換えましょうか。プレイヤーあるいはGMとしての方向性は、その個々の特性によって左右されます。個人的には、TRPGにおける技術とは、その特性の上に構築していくものだと考えております。つまり、それぞれの得意な部分を伸ばし、あるいは苦手を補うものであり、ある人に有効な技術が他の人にも必ずしも有効とは限らないと。
 自分に当てはめるのなら、GMとして緻密な調査型シナリオというものは作るのが苦手です。GMをしていても動的な感覚に欠けるため、今ひとつ乗れません。その代わり、インパクトのあるシナリオなら構築するのが好きですし、幸いにもプレイヤーを少しは楽しませることもできているようです。
 別の言い方をしてみましょう。プレイヤーの創意工夫や、PCの突飛な行動を引き出して、即興的にセッションを組み上げるのを得意とするGMも存在しますし、作り込みPCを右往左往させ望む方向へと追い立てる手法をとるGMもいます。共に有用な手法であり、同じ環境でRPGを遊んでいても、得意不得意や性格や嗜好によって、各々のアプローチは変わるということです。それこそが、才能、あるいは個々の特性なのです。


 ・・・というあたりまで、ざーっと書いて、まとまらなくなったので書き捨てます。
 デリケートな問題もはらんでいる気がするので、中庸をめざし、結局何を書きたいかわからなくなってきました。またそのうちに考えます、はい。